アリエッタは、そこでオーブンから漂う焦げた匂いに気づき、勢いよく立ち上がった。
「……ああ、もう」
わずかではあったが、オーブンから取り出したパンは焦げてしまっている。アリエッ
タは小さな声で、また失敗したと文句を呟き、その焦げている部分を手で何度か払った。
見た目はかなり悪くなったが、それで一応は食べられるようになったと判断したのか、
アリエッタはそれをかごに詰め、もう一度時計を眺めた。読みかけの小説に折り目をつ
け、外へと掛けだした。
「あー、良い天気」
口調ほどゆったりはしていない歩調で歩きながら、アリエッタは眩しそうに空を見上
げた。夏を間近に控えた空気の中を早足で進んでいると、しっとりと汗がその額ににじ
んでくる。石畳の歩道のすぐ側を車が何台か通り過ぎていく。休日のせいでそれほど車
の数も多くはなかったが、タイヤが巻き上げる細かい砂の埃からパンを守るようにアリ
エッタは上半身をかがめた。道路の反対側に一度視線を向け、クリス達の待つ音楽教室
への残りわずかな道を軽く走った。
「こんにちは」
アリエッタはノックもせずにドアを開け、中へと入る。今日は先生は来ていないとあ
らかじめ聞いていた。生徒はアリエッタを含め、クリスとトルティニタの三人しかいな
かったし、こんな時のために家の鍵も預かっている。とはいえ、アリエッタは在籍して
いるだけであり、彼等と一緒に練習することは、今となってはほとんどなかった。こう
して休日の夕方前、迎えに来るだけの生徒となってしまっていた。
アリエッタはそうしたことに彼女なりのわだかまりを抱えていたが、少なくとも今は、
笑顔を浮かべて歩いていた。音楽教室と銘打ってはいても個人の住居の一室を改造し
て作られた小さなもので、外から見る限り、ドアの近くに立て掛けられた小さな木の看
板にそう書かれていなければ誰にもわかりそうにない。アリエッタは廊下を歩き、二階
の目指す部屋へと向かう。
目的のドアの前に立ち、彼女はわずかな時間、その動きを止めた。防音効果をもたせ
た分厚いドアをほんの少しだけ開け、中の様子を窺うように顔を近づける。そっと目を
細めて部屋を覗くと、それと同時に、彼女の耳に二人の奏でる音楽が流れ込んできた。
その音を――しばらくの間身じろぎもしないで彼女は聞き続けていた。
その顔に浮かぶのは、感動でも、妬みでもなかった。ただひたすらに、その音を聞き
取ろうとしていたに過ぎない。
「……ん? あ、今日は遅かったね」
ふと演奏が止み、クリスが振り返った。彼はアリエッタのいるドアに背を向けていた
が、その視線を感じ取ったのだろうか。
その声に、アリエッタは驚いた風でもなく、ただおずおずと室内へと入った。
「もう演奏はいいの?」
「アルがちょっと遅かったから、暇で演奏してただけだよ」
クリスは快活にそう答え、早速フォルテールを片づけ始めた。
「今日は遅かったじゃない。どうしたの?」
トルティニタの方は、組み立て式の譜面立てをケースに入れるだけだったので、練習
を終えると決めた時にでもすでに片づけ終えていたんだろう。真っ先にアリエッタに近
づいてそう話しかけた。
「……ちょっとね」
「ん? この匂いは」
トルティニタが、なにかに気づいたかのように意地悪な笑みを浮かべる。パンを焼い
ていくことはすでに周知の事実だったから、トルティニタが気づいたのは、そのパンの
出来についてだった。そしてその後ろから、クリスが冗談めかして付け加えた。
「なに? また焦がしたの?」
「……またってほどじゃないよ」
「二回に一回ってとこだね」
「ほ……ほら。でも、最初の頃よりは良いんじゃない?」
トルティニタの冗談に、クリスがすかさずフォローを入れる。それさえも恥ずかしそ
うに、アリエッタはうつむいた。
「あー、ごめん、嘘だって。最近は三回に一回くらいだよね」
謝っている割にはあっけらかんとトルティニタが言い、それでアリエッタも笑顔を取
り戻す。最近のこの三人の間でよく交わされるやり取りだった。
アリエッタが突然音楽教室に通うのを止めると言い出してから、まだ数ヶ月ほどしか
経っていない。そしてその日から、アリエッタの休日の過ごし方だけが少し変わった。
彼等が練習している間に、ずっと好きだったパンづくりをして、ここに持って来ては三
人で食べる。最近では、もう誰もアリエッタに休日の過ごし方を訊ねたりはしない。
「ま、味は良いんだよね。一個もらうよ」
クリスは笑いながら、慣れた手つきでアリエッタの抱えたカゴからパンを一つ取り出
してそのまま口に入れた。それにつられてトルティニタも一個とった。
三人は教室の電気を消して外へ向かい、最後に玄関の鍵を閉めた。
「練習はどう? 最近はなにを練習してるの?」
歩きながらアリエッタがそう訊ねると、クリスはトルティニタと顔を合わせ、苦々し
げな表情を浮かべた。
「最近は、先生の言いつけで難しい曲ばっかりかな」
「クリスはまだいいじゃない、歌詞を覚える必要なんてないんだから」
アリエッタは、その言葉を聞いてわずかに顔をしかめた。多分、クリスやトルティニ
タほど彼女を知らない者なら、絶対に気づかないような些細な変化だったが、あいにく
その二人は、アリエッタのことを知りすぎていた。そしてアリエッタも、その二人が気
づいたことに気づくことができるほどには、彼等のことを知っていた。
「そっか……がんばってね。私はこうやってパンを作って応援することしかできないけど」
アリエッタは、それでも笑顔でそう言った。多分、彼女が抜けたことにより、先生は
残りの二人に相応の曲を演奏させるようにしたのだろう。それだけの資格が二人にはあ
るのだと、アリエッタは誇らしげな思いさえ抱いていたのだが、残された二人はそうは
思っていないらしかった。
「……パンづくりに飽きたら、また戻ってくれば?」
「そうだよ。アルの歌が聴けなくって、ちょっと寂しいんだから」
「またトルタは、そういうことを言う。私なんてどうせ……」
悪戯めいた口調と言動はどうしてもやめられないものの、アリエッタへの親愛の情は
隠しきれないのか、トルティニタはいきなりアリエッタに抱きついた。
「え? あ……きゃ!」
「いつでも待ってるからね」
言いながら、トルティニタはもう一つ、パンをとった。
「でもふぁ」
口にパンを入れたまま、トルティニタが続ける。アリエッタは注意しようかとも思っ
たが、それでも充分に意志の疎通がとれるのだから、と妹の行儀の悪さをとがめるのを
やめた。
「焦がしちゃったのは久しぶりじゃない?」
「あ……うん。ちょっと本を読んでて」
アリエッタが正直にそう答えると、クリスもパンを一つ取りながら話に加わった。
「そういえば、最近よく読んでるらしいね。どんなの読んでるの?」
「今日は……妖精の本、かな」
「妖精って、あの?」
「……うん」
彼等の暮らすこの世界には、もちろん妖精は存在しない。かといって、絶対にいない
という証明がなされたわけでもなかった。かつて、魔力が世界に満ちていた頃、確かに
それは存在していた。人が名を与え、その存在を認めていた時代は確かにあったのだ。
語られる姿や特質は様々だったが、素晴らしい歌を歌うことや、背中の羽で空を飛ぶ姿
などは、だいたい似通っていた。
「その妖精の話を集めた、短編小説なの」
タイトルは忘れてしまったけど、とアリエッタは言い添えた。
「本当にいるのかな?」
「……いたら良いよね」
クリスの素朴な疑問に、アリエッタはそう呟いただけだった。
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